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高崎神社

高崎神社の史跡

高崎神社の鰐口

高崎神社の鰐口

鰐口とは神社や仏堂の正面軒下につるす金属製の音響具のことです。 高崎神社の鰐口は指定重要文化財に指定されている為、特別な管理が義務付けられています。その為、残念ながら一般公開はされていません。

もともとは高崎城内の社殿に掛けられていたものが明治五年に高崎神社(当時は熊野神社)に移されました。 鰐口には「奉掛鰐口小坂下村菊水寺 武州秩父郡友恒名 内住侶荒船和泉守善慶 天文三年甲午九月日 本願之春」と刻されています。これは戦国時代の1534年、現在の埼玉県秩父郡の荒船和泉守善慶という人が地元の菊水寺へ奉納した、と読めるのですが、秩父の鰐口が何故高崎にもたらされたのかは、今もって謎のままです。

和田の立石

高崎神社の拝殿正面の前に、「和田三石」の一つである「和田の立石」が置いてあります。 「和田三石」とは、『高崎志』によれば、「上和田の円石」「和田の立石」「下和田の方石」の三つのことで、高崎城の城主・和田氏はこの三石をとても愛していたと伝えられています。

高崎城築城の時も、近所の大石はそれぞれ使われたが、この三石は和田氏が特に愛情の石ということでそのままになったといいます。

和田の立石
 

美保大国神社とゑびす溝

昭和二年、銀行の休業、会社の破産、中小商工業の不振など、いわゆる昭和恐慌となりました。 そのため、高崎の商工業者の間に美保神社(島根県)の事代主神(ゑびす様)の分霊を迎えて商工業の振興をはかりたいという計画がたてられました。当時の高崎市長や商工業者の努力により、高崎神社の敷地内に、昭和四年に美保神社の分霊を、それまで祀っていた大国主神(だいこく様)[本社は島根県出雲大社]とともに奉斎をし、美保大国神社としました。

この年、第一回目の大祭に併せ、「大恵比寿講売市」が開催され、以後高崎だけでなく北関東の名物イベントとなりました。高崎神社の前の嘉多町通りが「ゑびす通り」と呼ばれているのも、ゑびす講に由来しています。

 
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